環境汚染と破壊の実態を世にさきがけて告発した本、『沈黙の春』は、発表当時大反響を巻き起こし、地球環境への人々の意識を変えるきっかけになりました。

この本の著者、レイチェル・カーソンは、アメリカのベストセラー作家で、海洋生物学者でもありました。他にも、『潮風の下で』『われらをめぐる海』『海辺』など、数々の素晴らしい作品を残しています。

彼女は『沈黙の春』を執筆中に癌におかされていました。
膨大な資料の山にうもれながら、『沈黙の春』を書き終えた時、自分に残された時間がそれほど長くないことを知っていました。

『センス・オブ・ワンダー』

『センス・オブ・ワンダー』は、レイチェル・カーソンが最後の仕事として取り組んだ作品で、彼女はこの作品の思想をさらにふくらませたいと考えていました。
しかし、時は待ってはくれず、夢を成し遂げる前に彼女の生命の炎は燃え尽きてしまったのです。

レイチェルの死後、友人たちの手によって原稿が整えられ、写真を入れて出版されたこの作品には、彼女の愛と願いがこめられています。

センス・オブ・ワンダーを子どもたちに

千年ツバキ公園の苔

レイチェル・カーソンが提唱した「センス・オブ・ワンダー」は、美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見はる感性と訳されます。

作品の中には、レイチェルと甥っ子のロジャーが、自然を探検する中で様々なことを感じ、共感し合いながら感受性にみがきがかけられていく様が描かれています。

『センス・オブ・ワンダー』からの引用です。

 この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。

 地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活のなかで苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけだすことができると信じます。

『センス・オブ・ワンダー』

レイチェル・カーソンは、破壊と荒廃へつき進む現代社会のあり方にブレーキをかけ、自然との共存という別の道を見いだす希望を、子どもたちの感性の中に期待したのです。
そして、たとえ倦怠と幻滅、絶望の中にあっても、希望を見つけ出し、生きる力を燃やし続けることができるようにと、願ったのだと思います。

自然への畏敬の念はどこへ

しかし、今、子どもたちは自然から遠ざかり、人工的なものに囲まれて暮らしています。
全ての子どもがそうでないにしても、自然への畏敬の念は確実に薄れてしまっていると感じるのです。

教室に迷い込んできた蜂を見て、「気持ち悪い」、「殺せ!」と叫ぶ子どもたち。
教師が殺虫剤をかけて虫をやっつけるのを期待しているのです。
そういった場面が教室で繰り広げられている日常に、深い悲しみと違和感を感じます。

そこに在る生命に対するジャッジは、子どもの心に何を残すのでしょうか。

「良い」ほうにあるうちは生きる価値があり、「悪い」ほうに傾いたとたんに死にあたいするとは、どれほど厳しい世界を見続けることになるのでしょうか。
他者に向けられた眼差しは、自らを見る目でもあるのです。

どんな小さな生き物にも役割というものがあり、ありとあらゆる生命はつながりあって存在しているという感覚は、自分も他者も同じように大切に思える心を養います。それこそが、本当の「やさしさ」であり、「思いやり」であると思うのです。

巣を守るアシナガバチの女王蜂

知らなくてもいい、一緒に楽しもう

自然を探検する中で、自分自身がさまざまな生き物や植物の名前を知らないことで、子どもに「教えられない…。」と、気にする必要はありません。

レイチェル・カーソンは、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと語っています。

名前を知らなくても、美しいものを美しいと感じ、新しいものや未知のものに触れて感動することはできます。
そうしてよく観察しているうちに、憐れみや賛嘆、愛情、思いやりなど様々な感情がわきおこってくれば、その対象となるものについて、もっとよく知りたいと思うようになるでしょう。
そんなふうにして得た知識は、ただ与えられた知識に比べ、しっかりと身につきます。

大人だから、何か知っていなくてはならないわけじゃなく、ただ一緒に楽しむため。それだけで、十分なのです。

私のセンス・オブ・ワンダー

ここからは、私のセンス・オブ・ワンダー。この夏の経験をお話ししましょう。

毎年、夏になると海水浴に行くのですが、砂浜に謎の生き物がいました。
波打ち際に腰を下ろしていると、必ず、モゾモゾと足によじのぼってきては、時々チクッと噛んでくる2〜3㎜の小さな透明な虫のことです。

私はその虫の名前を知らなかったので、勝手に「トウメイチビムシ」と呼んでいました。

浜辺の楽しい思い出の中で、ちょっとしたイヤな感覚を感じさせるその生き物を、私は少しうとましく思っていました。

毎年、毎年、砂と波にまぎれて私をかじってくる者は、一体何なのか…。
「トウメイチビムシ」がかじってくる理由を、子どもたちと一緒に考えてみたりもしました。
蚊やヒルのように、血を吸うためではなさそうだし…。
毒を持っているわけでもなさそうだし…。

図書館の図鑑で調べてみても、トウメイチビムシのことは見つけられませんでした。
地味すぎるのでしょうか。

今年こそ、あいつの正体をつきとめるぞ!
海に行く私の目的は、いつの間にか、トウメイチビムシを観察することになっていました。
採集用に、海苔つくだ煮の空きビンを持って、海へレッツゴーです!


浜辺に着いて、波打ち際に腰を下ろすとすぐに、モゾモゾとした感覚が。
いました、いました。
つかまえてビンの中へ入れてよく見てみると…。

ヒメスナホリムシ

海水の中ですばやく動き回る小さなわらじのような形の虫…?
よく見ると、少し大きめのものもいます。

ウミホタルかなあ??
そう思って図鑑を開いてみましたが、ウミホタルとはなんか違います。

持って帰って専門家に相談を〜…..
そんなに待てない!早く知りたい!そんな知り合い、いないし!!
毎年モゾモゾチクリ!を感じ続けてきたので、知りたい気持ちはMAXになっていたのです。

実物が手元にあるんだから、ネットの画像検索で見比べてみればわかるのでは?
そう思って、「浜辺」「透明」「小さい虫」と入力して画像検索してみたら、ありました〜!

ヒメスナホリムシ

ワラジムシの仲間に属する海の生き物で、虫というよりはエビとかフナムシに近いそう。
魚の死骸などを食べて生きているので、人間のことも餌だと思って噛みついてくるのかもしれないと書かれていました。

私も自然の循環の中にいる!

トウメイチビムシは、私を食べようとしていたのか!
(ヒメスナホリムシだってば!)

人間は、捕食されるということが滅多にないですから、何者かに食べられる…というのは思ってもみないことでした。
鮫のような大きな生き物ならまだしも、あまりにも小さな生き物だったため、捕食者には思えなかったのです。

手ではらいのければそれまでのこと。
あまりにも力の差があるので、危機感は全く感じませんでしたが、それは私が今生きているからこそ。
もし、私がこの肉体を離れて死体になったならば、すぐに分解がはじまり、彼らに食べられてしまうのでしょう。
そして、土になっていくのです。

あらゆる生命が土によって育まれ、土にかえってゆく。私の肉体も…。

そう思うと、じわりとよろこびのような感情がわきあがってきたのです。
死をこんなふうに感じられるのはなぜなんだろう?
自分でも不思議でした。

まだ食べられるわけにはいかないけれど、いつかこの地球で次の生命を育む土壌になっていく。
自分も自然の大きな循環の中に在り、今という時、この命を生きている。
そういった実感がないまぜになって、不思議なよろこびとして感じられたのだと思います。

ちょっと変なエピソードだったかもしれませんが、生涯を通して持続する好奇心の炎、センス・オブ・ワンダーは、私の中にも燃え続けているのです。


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